元来は経済学の用語なのだろうか、過去に前例がなく予測のつかない状態のことを「過激な不確実性(Radical Uncertainty)」と呼ぶらしい。(「根本的な不確実性」という邦訳も見かけたが本稿では敢えてこう訳しておく。)国際政治の世界でも、ドナルド・トランプ大統領の誕生によって「過激な不確実性」の時代が始まったという見方が出ている。8年前、「チェンジ」を標榜してバラク・オバマ大統領が登場した時、オバマのめざす変化は大体想像がついた。だが今、トランプ大統領という降ってわいた現実に直面し、世界中の多くの人々が「従来の物差しで世界の将来を見通せなくなったのではないか」という不安を抱き始めている。 トランプのもたらす「過激な不確実性」とは何なのか。1月20日の大統領就任から一か月以上たったこの時点で一旦整理しておこう。
第一は価値観の動揺。
トランプは「西側」世界でこれまで共有されてきた価値観に次から次へと挑戦している。大統領選の最中は人種差別的な発言や女性蔑視の言動に注目が集まった。オルト・ライトと呼ばれる白人至上主義者がトランプのコアな支持者となっていることは周知の事実だ。メキシコ国境に壁を築くという主張が示すとおり、トランプは「移民の国・アメリカ」の伝統や人道主義に縛られるようとは思わない。テロとの戦いの対象をわざわざ「イスラム」過激テロと呼んだ大統領就任演説からは、宗教的寛容よりも特定宗教への憎悪が垣間見えた。アメリカに雇用を呼び戻すためという名目で保護主義的な主張も堂々と展開している。
中でも懸念されるのは、トランプがアメリカの民主主義を変質させつつあることだ。自分を批判する報道にトランプは「フェイク・ニュースだ」と感情的に反論している。その結果、「多様な意見の表明」と「権力に対するチェック・アンド・バランス」というアメリカ民主主義の土台は日々崩される。トランプにとって望ましい民主主義とは、指導者である自分が守られる民主主義なのか。それではウラジーミル・プーチンや習近平と本質的に変わらないことになってしまう。
トランプ政権は米国の価値観をどこまで過激に変えていくのか。 それは世界にどのような影響を与えるのか。既に欧州ではネオ・ナチ的な右翼勢力がトランプとの連携を画策しているという。 我々は由々しき不確実性に直面している。
第二は国際秩序に与える衝撃。
少なくとも、これまでのトランプの主張がそのまま実行されれば、世界情勢は不安定化することが間違いない。もちろん、大統領候補時代の過激な主張がそのまま大統領の外交政策として実行されるとは限らない。ブッシュ・ジュニアは大統領選の最中、中国を「戦略的競争相手」と呼んだ。ところが、テロとの戦いを通じて両国は協力関係を深め、ブッシュ政権は中国を「責任ある利害共有者」と位置付けるに至った。トランプの場合、選挙戦中の発言へのこだわりが人一倍強いように見える一方で、発言がコロコロ変わることも珍しくない。そのことを断ったうえでトランプ外交を予想してみる。
- 対ロシア
戦略的取引のつもりなのか、オバマ政権と違うことをやりたいだけなのか。トランプ政権はアサド政権支持のロシアとシリアで協力することによってISを打倒するという考えに魅力を感じているように見える。だが、それに伴って現在行っている対ロ制裁を緩和・解除すれば、ロシアのクリミア併合とウクライナにおける軍事行動を容認することになる。独仏などの反発を招くことはもちろん、サイバー攻撃を含め、既存の国際秩序に対するロシアの挑戦は益々勢いづくこととなろう。
- 対中国
これまでトランプは為替や通商問題で中国を厳しく批判してきたし、中国による南シナ海での軍事基地建設に釘を刺すツイートもある。首席戦略官のスティーブ・バノンに至っては昨年3月、「今後5年から10年以内に米国は南シナ海で戦争する。そのことに疑いはない」と述べている。筆者はそんな単純な話にはならないと思っているが、米中関係が緊張すれば日本も――米国自身や国際社会全体も――相当な影響を受ける。それが軍事衝突なら被害は極めて深刻なものとなろう。(トランプ政権下の米中関係および同政権の対北朝鮮政策については別稿で改めて論じようと思う。)
- 対中東
米国の歴代政権はイスラエルと切っても切れない関係にあるが、トランプ政権ではそれが突き抜ける可能性がある。トランプはオバマ政権時代にロシアを含む欧米六カ国がイランと結んだ核合意を「最悪」と呼び、再交渉する意思を表明してきた。中東和平問題で米国政府が20数年来掲げてきた2国家(イスラエルとパレスチナ)共存構想についても、「2国家共存でも1国家でも」と述べて見直しを示唆した。在イスラエル米大使館をテルアビブからエルサレムに移転することも公約の一つだ。これらが実行されれば、中東情勢は一気に流動化する。
- 貿易協定
トランプは大統領就任初日にTPPからあっさりと離脱した。NAFTA再交渉の意向も既に表明している。「自由貿易には賛成。でも公正でなければならない」と述べるトランプ。だが、アメリカ・ファーストの旗印の下、目先の自国利益(=他国の損)にこだわれば、交渉はそう簡単にはまとまるまい。GATTからWTO、そして地域的FTAの並立という流れの中、自らは多少譲ってでも米国が主導してきた世界的な自由貿易の推進に急ブレーキがかかる可能性が出てきた。みんなが「自国ファースト」と言えば、その先にあるのは保護主義でしかない。
- 同盟内での負担増要求
トランプ政権は、ドイツをはじめとしたNATO加盟国に対し、防衛費の増額を声高に要求している。就任後は沈黙しているものの、トランプが大統領選挙中に米軍駐留経費を日本が全額負担すべきだと述べたこともよく知られている。トランプは不動産王らしく、安全保障面でも金目に換算してアメリカ・ファーストの要求を突き付けているように見える。だが、将来的には同盟国に対して自衛隊派遣など軍事作戦面での協力を求めてきても不思議ではなかろう。NATOにせよ日米・日韓同盟等にせよ、第二次世界大戦後の「西側」の安全保障制度は、圧倒的な能力を持つ米国がパートナー諸国よりも遥かに大きな責任と役割を担うことで成立してきた。役割と責任の大きさが米国の影響力と表裏一体であることは言うまでもない。トランプがこの構図を急激に変えようとすれば、同盟国間の摩擦や同盟そのものの弱体化を招きかねない。
付言すれば、「アメリカ・ファースト」の矛先は当然、国際連合にも向くものと予想される。トランプはEUなど地域統合の動きにも明らかに冷淡だ。世界レベル及び地域レベルで(不完全ではあっても)何十年もかけて徐々に制度化されてきた仕組みが軋めば、国家を単位とした勢力均衡的な考え方とナショナリズムが力を増す可能性がある。
第三は統治能力に対する疑問。
米国は経済力(名目GDP)で世界の約4分の1、軍事支出で36%(2015年、SIPRI調べ)を占める最強の国だ。米国がしっかり統治されなければ世界も不安定化する、と思っても杞憂とは言えまい。しかし、大統領選後のトランプの言動を見ていると、過激な主張もさることながら、この人は米国をちゃんと率いていけるのだろうかと心配になっているのは筆者だけではないだろう。
例えば、「一つの中国」をめぐるトランプの発言だ。昨年12月11日、インタビューに答えたトランプは、通商問題などで中国と取引が成立しなければ「一つの中国」に縛られる必要はない旨を述べた。中国政府にとって「一つの中国」に疑義を差し挟まれることは共産党政権の正当性が揺らぐことに直結するため、絶対に認められない。トランプが本当に見直しに動けば、米国企業を中国から追い出すくらいのことはやってのけるだろう。北京政府はトランプ発言に表向き強い反応を示さなかったが、水面下で米政権内外の関係者に猛烈な圧力をかけたであろうことは想像にかたくない。結局、2月9日に習近平主席と電話会談したトランプは「一つの中国」の原則を尊重すると習に伝えた。軌道修正したからよい――本当に軌道修正したかどうかもまだわからないが――という問題ではない。米国大統領になれば、その場の軽率な言動を取り消す間もなく戦争に突入するような事態もまったくありえなくはない。戦争まで行かなくても、東アジアや中東などで緊張が生じれば日本にも火の粉が降りかかってくるのだ。その理由がトランプ政権の未熟さにあるなど、願い下げである。だが、ここまでの言動を見る限り、ドナルド・トランプという人物は米国大統領に選ばれた者として前例がないほどに「軽い」。それが不確実性と不安に直結することは言うまでもない。
トランプ政権の人事の躓きも、単に議会の承認が遅れているというだけではない。マイケル・フリン安全保障担当補佐官は就任前にロシアと違法に接触した疑惑で辞任したばかりだが、今度はジェフ・セッションズ司法長官が選挙戦中にロシアと接触していたことを議会証言で黙っていたと報道された。ここまで脇の甘い人が目立つ政権は記憶にない。
トランプは政治や行政の経験を持たないまま、そして政策的な知見を磨く機会もないままに大統領になったように見える。ロナルド・レーガンが俳優出身の大統領であることはよく知られている。だがレーガンは大統領選に出る前にカリフォルニア州知事を2期8年務めており、政治の素人ではなかった。政治任用で政権を支える閣僚及び上級官僚についても、本来ならその候補となるべき人々の多くが選挙戦中にトランプ不支持を打ち出して政権から距離を置いた結果、トランプやその側近たちの主張に近いというだけで経験不足の人材が職を得つつあると言う。このことは「反ワシントン」に共鳴するトランプ支持者たちにとっては溜飲を下げる動きかもしれない。しかし、米政府の統治能力という点ではやはりマイナスが大きい。そこをロシアや中国に乗じられなければよいが、と思うのは杞憂であろうか。