自衛権に着目した安全保障像の5類型~憲法9条改正議論の準備として

9条改正の健全な議論を促進するための第一歩として、「日本が保有すべき自衛権」という切り口で日本の安全保障像の類型をいくつか示してみたい。具体的には、①安保法制以前の自衛権、②安保法制以降、今日までの自衛権、③自民党改憲草案がめざす自衛権、④2005年の民主党が思い描いた自衛権、⑤個別的自衛権のアップデート版の五つだ。なお、国際貢献としての武力行使については、議論が複雑になるのを避けるため、今は敢えて立ち入らないことにする。

1. 安保法制以前の自衛権

1954年に自衛隊が発足――ただし、前身となる警察予備隊は1950年、海上警備隊は1952年に設置されている――して以降、2015年9月に成立して翌年3月に施行された安全保障法制以前の日本に行使できたのは、国際法上認められた自衛権のごく一部であった。

憲法9条は第1項で戦争を放棄し、第2項で戦力の不保持、交戦権の否認を明確にしている。にもかかわらず、自衛隊という事実上の軍隊(国際法上は正真正銘の軍隊)を保有しているという矛盾を解消するため、歴代内閣及び内閣法制局は、憲法9条は「国家が自然権的権利として当然に持つ『自衛のための必要最小限の武力の行使』まで放棄したものではない」、裏を返せば「『自衛のための必要最小限の武力の行使』を行う自衛隊は保有できる」と説明した。そして、「自衛のための必要最小限の武力の行使」を超えるが故に集団的自衛権の行使は不可、と明確に表明してきた。

憲法に由来する制約は個別的自衛権にもかかっている。例えば、個別的自衛権の行使としても海外派兵は基本的にできない。第2項にある交戦権の否認によって占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕も許されない。

上記をイメージ化すれば、下の図のように描ける。

         【図①】

個別的自衛権

  (個別的自衛権)      (集団的自衛権)

米ソ冷戦の最中、日本にとって喫緊の脅威と考えられたのは極東ソ連軍による北海道への着上陸作戦であった。米国の戦略上も、米軍が自衛隊に期待したのは有事の際にソ連海軍(特にSLBMを搭載した潜水艦)を日本海に閉じ込めることであり、それは3海峡(宗谷、津軽、対馬)の封鎖を意味した。いずれも、上記解釈の範囲内で個別的自衛権を行使すれば実行可能であった。

ソ連崩壊後、1990年代になって北朝鮮の核・ミサイル開発が進むと、日本に対する脅威の焦点は朝鮮半島に移った。集団的自衛権の行使や海外派兵が認められない中、日本政府は「『非戦闘地域』における活動なら武力行使に当たらない」という論理をひねり出し、自衛隊が米軍に対して後方支援を行えるようにしたのである。(この論理が日本国内のみで通用するガラパゴスなものであることは改めて言うまでもない。)

 

2. 安保法制以降の自衛権

2014年7月1日、安倍総理は従来の憲法解釈を大きく変更し、集団的自衛権行使を一部容認すると閣議決定した。そのうえで2015年9月に安保法制が成立し、「存立危機事態」という概念が創設されて集団的自衛権の行使が部分的に認められることになった。

※ 存立危機事態は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」と定義されている。加えて、「国民を守るために他に適当な手段がない」こと及び「必要最小限度の実力行使にとどまる」ことも発動の条件とされる。

公明党との関係や内閣法制局の最後の抵抗もあったのであろう、この集団的自衛権行使には相当な制約がついた。交戦権の否認等の憲法上の規定がある以上、自衛隊による武力行使が他国並みにならないことは確かである。だが、どのような事態が存立危機事態に当たるかは将来の政権の判断にかかる部分が相当に大きい、というのが私の見方だ。

※ いわゆる安保国会で政府は当初、朝鮮半島有事の際に邦人を輸送する米艦の防護やペルシャ湾で紛争が起こって石油輸入が遮断された時の機雷掃海等を具体的事例として挙げていた。だが次第にグダグダになり、採決の直前には安倍総理自身、最もこだわっていた機雷掃海について「いま現在の国際情勢に照らせば、現実問題として発生することを具体的に想定しているものではない」と述べる始末。野党はこの発言に「そら見たことか」と溜飲を下げたが、この答弁も将来的にペルシャ湾有事を存立危機事態と認める可能性を全否定したものではない。また、朝鮮半島で北朝鮮と米韓が紛争状態に入ったが日本はまだ攻撃されていない場合や米本土がミサイル攻撃を受けた場合等、存立危機事態の肝になると容易に考えられるはずの事案についても突っ込んだ質問が発せられることはなかった。

なお、新安保法制は個別的自衛権行使の部分には基本的には手をつけていないため、従来課されていた個別的自衛権への制約はそのまま残っている。こうした現状をイメージ化すれば、図②のようになる。

         【図②】

  (個別的自衛権)      (集団的自衛権)

「1項、2項+自衛隊明記」という提案は、安倍自身の説明を鵜呑みにすれば、この図が示す自衛権を体現するものとなるはずである。だが、現行解釈の根幹が「軍隊の不保持」を出発点としている以上、自衛隊を明記すれば解釈は変わって当然、と考えるのが普通である。そう考えれば、安倍提案が実現すれば、我が国の自衛権は②と次に説明する③の間に落ち着く可能性が高い。

 

3. 自民党改憲草案(2012年)の自衛権

自民党は野党時代の2012年4月に憲法改正草案を発表している。そこで示されている基本的考え方は、自衛権行使に憲法上の制約をつけることはやめるというものだ。

※ 自民党憲法改正草案の自衛権に関連する部分は以下のとおり。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。

2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

第九条の二

我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。

2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。(以下略)

 『草案』は第1項の戦争放棄は基本的に残しつつ、第2項では「戦力の不保持」を削除し、自衛権の発動が第1項の規定によって妨げられないことを明記。自民党のQ&Aはその狙いを「自衛権の行使には、何らの制約もないように規定」することと明快に解説するとともに、ここで言う自衛権に個別的自衛権と集団的自衛権の両方が含まれると説明している。

この条文であれば、侵略戦争でなければ海外派兵も当然認められよう。また、交戦権の否認も落ちているため、個別的自衛権であろうが集団的自衛権であろうが、占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕などを含め、制約なく実施可能になるものと考えられる。いわゆる「普通の国」の自衛権行使に近いと思ってよい。これをイメージ化したのが図③である。

         【図③】

   (個別的自衛権)      (集団的自衛権)

 

4. 民主党憲法提言(2005年)の自衛権

民主党は2005年10月に『憲法提言』をまとめている。『提言』は「国連憲章上の『制約された自衛権』について明確にする」と述べている。その意味するところは、個別的自衛権なら全部認める、集団的自衛権なら全否定する、という立場はとらないということ。別な言い方をすれば、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、重要なのは必要な範囲で抑制的にしか使わないことだと論じたのである。これを図示すれば図④のようになる。

          【図④】

   (個別的自衛権)         (集団的自衛権)

興味深いことに、図④は図②とほぼ同じだ。『憲法提言』は個別的自衛権については戦後の伝統的な「専守防衛」を踏襲する一方で、朝鮮半島有事を想定して集団的自衛権の一部行使容認も排除しなかった。その意味では、安保法制の際に安倍内閣が提示した新3要件に似通った部分があったと言える。ただし、『提言』が認める可能性のあった集団的自衛権の行使は日本の近隣有事に限られ、中東や地球の裏側まで出かけるようなものは想定していない。また、自衛権の拡大を憲法解釈の変更によって行うことには強く反対していた。

※ 『憲法提言』が個別的自衛権と集団的自衛権を区別しなかったことに対し、「曖昧な表現によって党内対立を糊塗している」という批判が一部にあった。だが、日本ほど「個別的自衛権か集団的自衛権か」に政治家やメディアがこだわっている国はない。私は過去20年以上、米国をはじめ各国の専門家たちと様々な安全保障問題について議論してきたが、「個別的自衛権」とか「集団的自衛権」という言葉を使うことは基本的になかった。よく使う言葉は「武力の行使(use of force)」であり、論じたのは「武力の行使が正当か否か」である。「個別か集団か」の入り口で議論が止まり、武力行使の正当性という事の本質を議論しない風潮はもう終わりにした方がよい。

 

5. 個別的自衛権のみを明記した改憲案

野党の一部には、安保法制以前の自衛権に関する考え方を踏襲しつつ、それを現代版にアップデートして改憲論議に臨もうとする動きが見られる。その場合の改憲案は、自衛隊の存在は明記する一方で、自衛権については安保法制前の3要件を参考にして抑制的に書くのではないかと思う。

当然、集団的自衛権の行使は認めない。しかし、例えば朝鮮半島で米韓と北朝鮮が交戦状態に入り、日本もいつミサイル攻撃を受けるかわからないような時に、日本がまだ攻撃を受けていないから防衛出動を下令できないのはまずい、という問題意識は持っており、個別的自衛権の発動条件は緩める必要があると(おそらく)考えている。

具体的には、「着手」を見直すのであろう。相手(北朝鮮)が日本に対するミサイル攻撃を実行に移す前であっても、米韓との戦闘状況や北朝鮮の動員状況等に照らして日本に対するミサイル攻撃がいつあってもおかしくない、と判断されれば、北朝鮮側に武力攻撃の着手があったとみなし、個別的自衛権を発動できると考えるのだ。

※ 着手の見直し論に対しては、国際法上違法な先制攻撃につながるという批判が一部から聞こえてくる。しかし、相手が攻撃に着手したと主張できる根拠が一定程度あれば、こちらが先に手を出しても国際法上違法と批判される可能性はまずない。(核)ミサイルによる攻撃が想定される時はなおのことである。 

着手の見直しとあわせ、占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕などを可能にするため、交戦権の全面的な否認を見直す可能性もある。ただし、ベースになるのが戦後の伝統的な個別的自衛権である以上、中東に自衛隊を派遣して武力行使させるようなことは想定していない。

こうした考え方をイメージ化すると図⑤のようになる。①と似ているが、個別的自衛権を表す図形は①よりも縦方向に長い。

             【図⑤】

    (個別的自衛権)       (集団的自衛権)

 以上、我が国の持つべき自衛権について、過去及び現在の日本政府の考え方、今後の改憲論議を通じて出てくると見込まれる主要な考え方をざっと整理してみた。

日本が国家として保有すべき自衛権はどのようなものか――? 我々はよくよく考えてみるべきだ。

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