シビリアン・コントロールは大丈夫か?  ~河野統幕長の「改憲ありがたい」発言と南スーダン日報問題

二十年以上にわたる防衛省・自衛隊の人たちとの付き合いの中で、私は自衛隊のシビリアン・コントロール意識の高さに厚い信頼を寄せてきた。だが最近、自衛隊の持っていた謙虚さと言うのだろうか、戦後営々と築き上げた「民主的統制の文化」が希薄化しているのではないかと感じることが増えている。自衛隊の活動を評価することと、自衛隊に甘い態度を取ることは別次元の問題だ。我々はここらでシビリアン・コントロールのタガを締め直すべき時に来ているのではないか。現に安倍総理が「戦後レジームの解体」を目指している今、戦前に戻るわけがない、と高を括ってはならない。

河野統幕長の「ありがたい」発言

河野克俊統合幕僚長の「非常にありがたい」発言が物議を醸している。

5月24日、外国特派員協会で河野統幕長は、安倍総理が憲法9条の1項、2項を残しつつ、自衛隊の存在を明記する案を表明したことについて質問を受けた。統幕長は「憲法というのは非常に高度な政治問題であり、統合幕僚長という立場から発言するのは適当ではない」と断った後、「一自衛官として申し上げるなら、自衛隊というものの根拠規定が憲法に明記されることになれば、非常にありがたいなとは思います」と続けた。

私の遠い記憶では、河野氏は自衛隊幹部の中でもバランス感覚に優れ、シビリアン・コントロールの何たるかも十分理解している方、という印象。だからこそ、河野氏の発言には正直驚いた。

誤解を恐れずに言えば、戦後長らく、自衛隊は日陰者の扱いを受けてきた。その根本に憲法上自衛隊の存在が明記されていないことがある、というのはその通り。自衛隊を憲法に明記すべきという安倍総理の発言に対して河野統幕長が「ありがたい」と発言したのは、本当に一自衛官としての率直な感想を発露したものだったに違いない。(私の感想は違う。日本国政府は一貫して自衛隊を合憲としてきたし、ほとんどの国民もそう信じている。にもかかわらず、一国の総理かつ自衛隊の最高司令官である安倍が「改憲」という自らの宿願を果たすため、あたかも自衛隊が違憲であるかの印象を世間にばらまき始めたことは、自衛隊に対する冒涜だと思う。)

しかし、自衛隊法第61条及び自衛隊法施行令86条、同87条によれば、自衛隊員は特定の政党や内閣を支持またはこれに反対するために官職、職権その他公私の影響力を利用することなどの政治的行為を禁止されている。

ここではっきりさせておきたいが、自衛隊(員)は一朝有事の際に生命を賭けて戦うだけでなく、その専門知識に基づいて外交安全保障政策を立案したり大臣や政治家たちに助言したりすることも重要な仕事の一部だ。例えば、防衛省や自衛隊の幹部が国会で「米国が北朝鮮を攻撃した場合、一昨年成立した安保法制に基づけば、かくかく云々の事態になることが予想される」と述べても法律違反になることはない。(あまり詳細に述べれば別の問題は出てくる。)自衛官がメディア等に出演して啓蒙活動を行っても基本的には問題ない。だが、安倍総理による9条改正の提起は自民党総裁としての発言――と本人は言っているが、現実には内閣総理大臣としての発言と受け止められている――であり、与野党間はもとより自公両党の間や自民党自身の中にさえ大きな議論を呼んでいる。本人が意図していようがいまいが、河野統幕長の発言は政治的目的を持つと判断されても仕方がない。

百歩譲って明確な自衛隊法違反にならないとしても、河野氏の後段の発言によって、自衛隊が「民主国家の軍隊」であることに対する国民の信頼感に多少なりとも傷がついたことは間違いない。河野氏には釈明するのではなく、発言を取り消して謝罪してもらいたい。

河野発言を黙認する政治

とは言え、既に官邸(菅官房長官)が河野発言も「お咎めなし」と明言した以上、河野統幕長にこの発言を謝罪する自由はもはやない。今さら謝罪したり発言を取り消したりしたら、官邸に反旗を翻すことになるからだ。ここに、河野発言をめぐるもっと奥深い問題がある。つまり、自衛隊をコントロールする側のシビリアン(政治)が自衛隊にきびしい姿勢を見せずに庇っている、ということ。

菅義偉官房長官は同日行われた記者会見で河野統幕長の発言について、統幕長として答えるのは適当でないと断ったうえで「個人の見解として述べたものでまったく問題ない」と説明した。稲田朋美防衛大臣も同様の論理で河野発言を問題視すべきではないと庇っている。統幕長として記者会見に臨んだうえで「個人の立場では」と言えば政治的発言にならないのであれば、自衛官による政治的行為は事実上やりたい放題ではないか。かつて2008年に田母神俊雄航空幕僚長は日本政府の歴史認識と大幅に異なる主張を論文に著して免職された。菅や稲田の論理を敷衍すれば、将来、田母神氏が論文の冒頭で「航空幕僚長として述べることは適当でないが、個人の立場で申し上げる」と一言断っていれば、処分は免れていたことになる。

付言すれば、自衛隊法第61条は統幕長や幹部に対してのみ適用されるわけではない。河野氏が「一自衛官として」の意見と断っても、自衛隊法の適用は少しも妨げられないはずである。

菅や稲田が河野発言を問題視しないのは、それが彼らの大将である安倍総理の提案を支持するものだったため、という面も無視できない。同じように「個人の立場」と断っていたとしても、河野発言の中身が野党の主張を支持するものであったなら、安倍総理や菅官房長官は絶対に統幕長を許さなかったはず。

政治のトップレベルが河野発言を問題なしとしていることは、必ず将来に禍根を残す。自衛隊を心情的に庇ったのであれば、自衛隊員の中に「自分たちの役割が増えてきた今日、我々が事実上政治的行為をなしても黙認される」という空気を醸成する可能性がある。発言内容に即して政治的に擁護したのであれば、「時の権力と同じ意見なら政治的発言は許される」「官邸に自分たちの考えを吹き込めば、自分たちも政治の領域に入っていける」と考える輩が出て来ないとも限らない。シビリアン・コントロールはこうした蟻の一穴から崩れていくものだ。極めて憂慮せざるをえない。

南スーダン日報問題と特別防衛監察の行方

冷戦後、数々の災害派遣はもとより、国連PKO、日米ガイドライン、インド洋での対米給油活動、イラクでの復興支援活動と自衛隊の役割と実績は国民の目に見える形で拡大してきた。一昨年9月には安倍総理主導で安保法制が抜本改正され、集団的自衛権の一部行使容認を含め、防衛省・自衛隊の役割はさらに拡充された。同時に、北朝鮮の核・ミサイル開発、中国の台頭に伴う地政学的対立の深刻化等に伴い、国民が自衛隊に期待する役割も一層大きくなっている。こうした状況を受け、防衛省・自衛隊の意識に変化が生まれることは誰にも止められない。

しかし、防衛省・自衛隊は暴力装置――かつて仙谷由人官房長官は自衛隊を暴力装置と呼んで批判されたが、本ブログに政治的配慮は不要と思う――である。その制御は民主主義国家において最も重要な国家的課題の一つと言っても過言ではない。ましてや、安倍総理は憲法9条に自衛隊を明記するよう提起しており、実現すれば自衛隊の役割と存在感が質量ともに飛躍的に増大することは間違いない。(高村正彦自民党副総裁などは、改憲しても安保法制があるので自衛隊の「活動範囲は同じだ」と述べている。この人がフェイクを口にするのはいつものことだが、憲法改正しても既存の憲法解釈や安保法制が変わらないというのは出まかせもいいところだ。)暴力装置である自衛隊の役割が急速に拡大している今だからこそ、シビリアン・コントロールを再確立することが不可欠なのである。

こうした状況下で、我が国のシビリアン・コントロールのリトマス試験紙になると考えられるものがある。南スーダン日報問題をめぐる防衛省特別監察の行方だ。

 昨年10月、南スーダンに国連PKO要員として派遣されている陸上自衛隊の日報についてジャーナリストが開示請求を行ったところ、既に破棄されているとして防衛省に拒否された。(最近の報道では、昨年7月にも別の開示請求があり、やはり拒否されていたとのことである。)だが、破棄されたはずの日報が自衛隊のコンピューターに残っており、統合幕僚幹部もそのことを認識していたことが明らかになる。

おそらく複数の関係者がマスコミに断片的にリークしたためだろうが、本件は全体像がいまだに見えにくい。しかし、最初に開示請求があった段階で日報は存在したにもかかわらず、自衛隊内部で意図的に開示不要として処理した――当然、法律違反にあたる可能性が高い――というのが事の発端と思われる。防衛省内でその事実が把握された後も、今さら事実を公表できないということになって嘘の上塗りがなされた模様である。

 法律に基づいて情報開示請求がなされたにもかかわらず、中央即応集団なのか統合幕僚幹部なのかは知らないが、自衛隊が「自分たちが口裏を合わせれば、誰にもばれない」と考えて情報開示を拒否したのであれば、極めて悪質かつ危険なことだ。彼らがジャーナリストの情報開示請求を虚偽の理由で拒否したことも十分に大問題だが、(少なくとも初期の段階では)自衛隊が防衛大臣に対しても嘘の報告をあげていたことになり、こちらは別の意味でもっと深刻だ。

自衛隊の任務は武器使用や武力行使を伴う。その判断は法律上、総理大臣や防衛大臣が下すことになっているが、それも現場の自衛官が上げてくる情報に基づいて決められる。自衛隊の最前線は自衛官だけの閉じた空間となることが多い。万一、そこで自衛隊員が「上官や大臣に正確な情報をあげなくてもよい」と考えればどうなるか。シビリアン・コントロールは根元から崩れてしまう。

日報事件の発覚と拡大を受け、今年3月になって稲田防衛大臣は本件を特別防衛監察にかけるよう指示した。トップに法曹関係者などを招いた防衛大臣直轄の組織(防衛監察本部)が比較的独立性の高い調査が行われると言うが、所詮は防衛省内部に置かれたものであり、どこまで厳しく真相を解明し責任者にきびしい処分を下せるかは大臣を含む防衛省幹部の覚悟によって決まる。

残念なことに、特別防衛監察という手法そのものについては、稲田大臣が国会で追及を免れるための時間稼ぎだという指摘もある。仮に大臣が本気でも、彼女の防衛省・自衛隊を掌握する能力やシビリアン・コントロールに対する理解度を考えれば、あまり大きな期待は持てないだろう。唯一希望が残っているとすれば、制服、背広にかかわらず――いわゆる背広組も自衛隊法上の自衛官である――、防衛省・自衛隊内でシビリアン・コントロールの希薄化に危機感を持つ自衛官たちが自浄作用を働かせてくれることである。

監察結果は、今夏までに発表されるとも、もっと先送りされるとも言われている。防衛省、自衛隊には、戦後70年間育んできた「民主主義国家の軍隊(自衛隊)」としての矜持を見せてほしい。お手盛りの調査と形ばかりの処分が下されるだけなら、この国のシビリアン・コントロールは形骸化の坂道を転げ落ち始めると危惧せざるをえない。そうなれば、憲法で自らの存在を明確に認めてほしい、という本来なら正当な自衛官の願いも素直に支持することはできない。

私は護憲派ではないが、敢えて言わせてもらう。厳格なシビリアン・コントロールなくして9条改憲なし、である。

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